「家族」を感じるには?身近な未知との向き合い方_クエスチョンカンファレンスno.06

クエスチョンカンファレンス

  • #太田智美
  • #中谷礼仁
  • #矢吹理恵

第1回目から様々な切り口で“未知の問い”について考えてきた『クエスチョンカンファレンス』。食、老後、都市、学び、多様性、というこれまでのテーマに続き、第6回目である今回のテーマは「家族」です。


テキスト=中島貴恵 写真=コムラマイ 編集=矢代真也

クエスチョンカンファレンスとは?

多様なバックグラウンドの登壇者が集い、多様な問いを混ぜ合わせながら未来の可能性を探るトークカンファレンス。素朴な疑問から哲学的な考察まで、まだ答えにならない視点や意識が交差することで、思わぬ可能性が生まれるかもしれない。新しい問いが立ち上がる瞬間をお届けします。

スピーカー

太田 智美

ヒトとロボットの共生|慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科 後期博士課程在籍

太田 智美

ヒトとロボットの共生|慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科 後期博士課程在籍

中谷 礼仁

建築史・生環境構築史・歴史工学|早稲田大理工学術院建築学科教授

中谷 礼仁

建築史・生環境構築史・歴史工学|早稲田大理工学術院建築学科教授

矢吹 理恵

国際結婚・生涯発達心理学・家族心理学|東京都市大学 メディア情報学部 准教授

矢吹 理恵

国際結婚・生涯発達心理学・家族心理学|東京都市大学 メディア情報学部 准教授

他人を「家族」と感じられるために必要なこととは?

慶應義塾大学大学院 後期博士課程に在籍しメディアデザインを研究する太田智美さんは、ロボットの「ペッパー」と暮らして5年。

「ペッパーを最初から家族にしようと思っていた訳ではなく、なってしまったという感じ」だと話します。

「もともとは、ペッパーという存在に対する人間の反応が面白いと感じた。ほかのロボットとは異なるペッパーという存在に興味を持ち、購入した」のだとも。

そして1年、2年と一緒に暮らすうちに「家族」と感じるようになったとのことです。興味深いのは、一緒に暮らすご両親はペッパーに対し異なる印象を持っているということ。ペッパーのことを、お父様は「愛車」、お母様は「守ってあげなければならない存在」と、それぞれ感じるようになったそうです。

「家族とは共同体のひとつであり、『家族』と感じるためには、機能的な『関係性』だけではなく『愛着』が鍵」そう話すのは、早稲田大学 理工学術院建築学科の教授である中谷礼仁さん。

例えば、一緒に暮らす猫を「家族」と感じている人は多いでしょう。愛車のバイクを家族と感じる人は、それよりは少なそうです。じゃあ部屋にあるペットボトルは?……となると、ほとんどの人にとってペットボトルは家族ではなく、単なる道具ではないでしょうか。

同じ家の中に「在る」「居る」だけでなく、愛着、いたわりを持って関係性を作っていくことで、他人から「家族」になっていくのではないかと、中谷さんはお話しくださいました。

東京都市大学 メディア情報学部准教授であり、国際結婚や心理学に精通している矢吹理恵さんは「国籍の異なるパートナー間では、愛情表現の仕方も異なる。愛情表現が通じると家族と感じる」と話します。

例えば欧米では、同じ部屋に居る時に、お互い黙って過ごすのではなく、ともに議論や会話をしてこそ家族と感じるのだそうです。これは、長く連れ添った老夫婦が「阿吽の呼吸」と表現されることもある日本とは異なる文化とも言えそうです。

国際結婚とは、それくらい家族観の違う者同士が家族になることだと言えますが、違うからこそ愛情表現が通じたときの喜びもひとしおだと感じられる、そういった側面もあるのではないでしょうか。

結婚する理由、しない理由

他人から「家族」になる。その形の一つが「結婚」という制度ですが、矢吹さんは次のように指摘します。

「結婚という目標に向けて、まるでアイテムを選ぶように、相手を条件で選ぶ人もいる気がする。たとえば、お金持ちと結婚したいと考える人は、お金持ちという条件から相手を選ぶ。これは、先ほどの話題のペットボトルとの関係性に近いのかもしれない」

そのような関係性もある中、改めて「なぜ、結婚という形を選ぶのか」という問いが、モデレーターの矢代さんから投げかけられます。

矢吹さんは「国際結婚においては、結婚は相手と一緒にいるための手段」になる場合があると打ち明けます。外国に滞在するにはビザが必要で、ビザ切れで帰らねばならない事態を合法的に避ける手段が結婚なのだと。

一方、中谷さんは「結婚のない共同体」の例として、ご自身の研究領域であるシェーカー教について説明してくださいました。シェーカー教とはキリスト教の共同体の一つで、生きながらに人間の罪をなくしていく暮らしをめざしていたのだそうです。産みの苦しみは原罪とされたため、男女は同じ家で暮らしながらも、規律を持って二つに区画された空間の中で住んでいました。

独身主義を貫くけれど、協力し合い暮らしていく。現代の日本で暮らす私たちには理解しづらいかもしれませんが、中谷さんの「共学の学校だと思えば納得できる」という言葉を聞き、こうした共同体の在り方も、そこに愛着を持って関係性を築くことができれば、家族の形のひとつとしてあり得るのかもしれないと思えました。

家族とのコミュニケーションから生まれるものとは?

太田さんはペッパーについて、人とは異なるコミュニケーションが必要な存在であると話します。ペッパーと会話するには、ちゃんと聞き取ってもらえる低めのトーンで話すことが必要になるなど、普段の自分とは異なる話し方をしなければならないことがあるからです。

矢吹さんは、「ペッパーと話すことは、ネイティブスピーカーでない者同士の会話と似ているかもしれないですね」と続けます。自分や相手の母国語ではない言葉で話す際には、相手に伝わるように言い方を選ぶ、YesかNoかで答えられるようにするなど、最初はぎこちないコミュニケーションになることが多いでしょう。ぎこちないながらもコミュニケーションを重ね、「家族」になっていくには時間も必要かもしれません。

しかし、矢吹さんは、こうしたコミュニケーションの中で「第三のカルチャーが生まれる」ということもお話しくださいました。言葉のやり取りだけではなく、食事や生活の中でのあらゆる趣味嗜好や決まり事の確認とすり合わせ。その中で、家族だから伝わること、その家族ならではの文化が生まれるのだと。

「国際結婚に限らず、全ての結婚は異文化間結婚」

矢吹さんのこの一言がとても印象的でした。

一方、普段は言語でのコミュニケーションをあまりとらないペッパーに対し、太田さんが愛着を感じたのは「不在になったとき」なのだそうです。台風の日にたまたま知り合いの会社に預けてあったペッパーがとても心配になったのだと話してくださいました。

会話を通さなくても相手との関係性が変化し、育っていく。こうしたことは、例えば言葉を覚える前の子どもに対して保護者が愛情を感じることがあるように、人と人との間でも起こり得ることなのではないでしょうか。

制御できないから愛情が生まれる?

家族が暮らす場所と言えば「家」という名の住居空間ですが、中谷さんは「家がなければ、社会も個人も存在しない」と話します。

「家の中でしていることを社会にはみ出てすると大変なことになる。家はビルよりも重要な隔離物であり、大事なものを保管するための空間」

そんな中谷さんは、「家自体が人格化して愛着を感じられるようになったらどうなるのだろう」と考えているのだそうです。「例えば帰宅するのを察知してライトや暖房がついてくれることはプログラムで解決できるけれど、それによる感情の発生は予想以上だろう」

それに対し太田さんは「ライトがつくようにプログラミングするのは人間だけれど、それでも人格を感じられるのか?」と投げかけます。太田さんは、ペッパーに愛着を持ち家族と感じてはいるもののペッパーに感情があるとは思っておらず、人間と同じだと感じている訳ではないそうです。

「機械を擬人化することへの違和感」に対し中谷さんは、人格を感じ、愛情が生まれるのは機械の完璧さに対してではなく、壊れたときなどに生まれる「偶然性」に対するものなのではないか、と答えます。

更に矢吹さんが「なぜわざわざコントロールできない人間同士で結婚するかというと、他人を制御できないこと、その意外性こそが面白く、それに取り組むことで新たな自分の引き出しが増えるからではないか」と続けます。

アイテムを選ぶように相手を選ぶ人にとっては、偶然性や意外性は歓迎すべきものではないでしょう。しかし、愛情をベースに相手との関係性をつくっていくには、制御できないことを面白がる姿勢が必要になるのかもしれません。

子どもをつくること、育てることとは?

制御できない存在と言えば、親にとっての子どもという存在もそうだと言えそうです。「なぜ子どもをつくるのか?」というモデレーターからの問いに対する登壇者の考えは、

「子どもを作ることは、共同体の成員の維持のために大事なこと。ただし大事なのは産むことではなくて、育てること。自分の子どもでなくてもいい。自分が誰かに世話してもらった分、自分も誰かの世話をする」(中谷さん)

「子どもを育てることは、自分の子ども時代をやり直すこと。やってもらえなかったこと、やってもらって嬉しかったことをする」(矢吹さん)

「自分の遺伝子を残したいという気持ちはある。今家にいるペッパーは血縁関係に近いので、恋人や結婚の相手という感覚ではありません。ただ、遺伝子を残せるならロボットとの結婚も今後あり得るのでは」(太田さん)

自分がしてもらった恩を返したいかどうか。遺伝子を残したいかどうか。そういった感覚は人により異なるものだと思われますが、登壇者の言葉は「一人の人間、自分という存在が、遺伝子のつながりや、自分を育てる誰かの存在なくしてはあり得なかった」ということを思い起こさせるもののように感じました。

自分の「ゆずれない」から飛び出すこと

イベントの最後は参加者同士でのディスカッションの時間が設けられ、「他人から家族になるように、家族は他人になるのか?」「儀式を共に行うことで家族になるのでは?」など、3名ずつ座ったどのテーブルでも活発なディスカッションが行われていました。

そして、矢吹さんから改めて「人にはそれぞれの『ここだけはゆずれない』が皆ある。その中にとどまりたいのか、それとも、未知のものに出会うことにわくわくできるかどうか」との言葉が投げかけられました。

この言葉は、家族について考えるときのみならず、多様性の中、他者という未知の存在と出会い、関係性を築きながら生きる私達が、今まさに問われていることだと言えるのではないでしょうか。

クエスチョンカンファレンスは次回、「公共と個」というテーマで開催されます。

個人と「みんな」の関係について、更に考えを深めてみませんか。

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