「多様性をつくるのは誰?」『違い』と生きる、その先の未来_クエスチョンカンファレンスno.05

クエスチョンカンファレンス

  • #阿部一雄
  • #清成弥生
  • #寅丸真澄
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第1回目から様々な切り口で“未知の問い”について考えてきた『クエスチョンカンファレンス』。食、老後、都市、学び、というこれまでのテーマに続き、第5回目である今回のテーマは「多様性」です。

今回のレポートでは、QWSで会員サポートをしているコミュニケーターの視点から見た、ディスカッションの中で新たに生まれた問いをご紹介します。


テキスト=中島貴恵 写真=コムラマイ 編集=矢代真也

クエスチョンカンファレンスとは?

多様なバックグラウンドの登壇者が集い、多様な問いを混ぜ合わせながら未来の可能性を探るトークカンファレンス。素朴な疑問から哲学的な考察まで、まだ答えにならない視点や意識が交差することで、思わぬ可能性が生まれるかもしれない。新しい問いが立ち上がる瞬間をお届けします。

スピーカー

阿部 一雄

建築士

阿部 一雄

建築士

清成 弥生

料理研究家

清成 弥生

料理研究家

寅丸 真澄

異文化間コミュニケーション|早稲田大学

寅丸 真澄

異文化間コミュニケーション|早稲田大学

永田 龍太郎

渋谷区役所総務部・男女平等・ダイバーシティ推進担当課長

永田 龍太郎

渋谷区役所総務部・男女平等・ダイバーシティ推進担当課長

平山 潤

『NEUT Magazine(ニュートマガジン)』創刊編集長

平山 潤

『NEUT Magazine(ニュートマガジン)』創刊編集長

本間 健太郎

都市・データ・デザイン数理|東京大学

本間 健太郎

都市・データ・デザイン数理|東京大学

「違い」について考えるときに大事なことは?

「違い」や「多様性」について考える時に、「ダイバーシティ」という言葉が登場することも多いと思います。最近よく耳にするようになった「ダイバーシティ」ですが、そもそも何を指す言葉なのか、説明できる人は多くないのではないでしょうか。

渋谷区役所総務部・男女平等・ダイバーシティ推進担当課長である永田龍太郎さんから、「ダイバーシティ」を語る際には「インクルージョン」についても理解していることが大切、というお話がありました。

「ダイバーシティ」は「多様性」または「多様性について認識している」ことを差し、「インクルージョン」は「包摂」という意味で、「多様性について認識しつつ、みんなでアクションしていく」という行動を含む状態を指す言葉なのだそうです。

「日本では現在ダイバーシティという言葉をよく聞くようになったけれど、この言葉ばかりが一人歩きしてしまっているのでは?インクルージョンのためのダイバーシティ、という認識がもっと必要である」と永田さんは呼びかけます。

言葉が一人歩きするのではなく、言葉と共に自分達も歩んでいくために、その言葉の本当の意味や、なぜその言葉が生まれたのかまでを知ることが、時に大事になってくるのかも知れません。

ムスリムの人は日本人と同じ?

料理研究家の清成弥生さんは、2013年に自宅で料理教室を立ち上げたのち、2017年からハラール専門の日本食講座を都内でスタート。ハラール料理とは、豚肉やアルコールを除いた食材や料理のことです。

通常の日本での食事とは多くの違いがありますが、清成さんは食材や調味料を置き換えて、ハラール専門の日本食を提供することを楽しく感じられているそうです。ちなみに、料理を習いに来るムスリム(イスラム教徒)の方には、お好み焼きやカレー、ラーメンなどB級グルメが人気とのこと。

清成さんは、料理教室を通してムスリムの人と接する中で、ムスリムの人に日本の庶民的な食べ物が人気だと知ったり、イスラムの教えと日本人の道徳観に近いものを感じたり、ムスリムの女性が被る「ヒジャブ」と呼ばれる布が昔の日本人女性がよく被っていた「ほっかむり」のように見えたり、「日本人とあまり違わないな。意外と、『同じ』なんだな」と思うことが多くなってきたそうです。

相手と自分との間に「同じ」を見つけた時に親しみを感じることは多いと思います。ですが、仲良くなるには「同じ」でないといけないのでしょうか?

「同じ」で安心するのはなぜ?

早稲田大学で日本語教育、留学生のサポートに携わっている寅丸真澄さんは、留学生に接する際、「違うのが当たり前」という意識でいるのだそうです。その理由について「国の文化だけでなく、家族の文化であったり、個人の文化をみんな持っているのだから」と言います。

そんな寅丸さんですが、時には日本語が上手な留学生に対して「そう言えば母語の異なる人だった!」とハッとして、いつの間にか相手を「同じ」と感じていたことに気づくこともあるそうです。

「日本人と同じように日本語を話そうとする外国人と会うと、日本人と同じであることが良いという意識を感じることがある」とモデレーターの矢代さんが話すと、「『同じ』に安心することに対して、本当にそれでいいのか?と疑問に感じている」と寅丸さんは続けます。

「違い」について考えるとき、「同じ」とは何なのかも、決して切り放せない問いであると言えそうです。

偏らない言葉で伝えるには?

ウェブマガジン「NEUT Magazine」編集長である平山潤さんは、若い世代が社会問題についてもっと話すことにつながるような発信をしています。平山さんもまた「根本的に、人はみんな違うという前提でいる」のだそうです。

「一人の相手にも、好きになれるところもあれば合わない部分もある。全てを好きじゃなくていいのでは」

メディアに関わる立場として大事にしているのは、偏らずに(=ニュートラルに)紹介すること。誰かを紹介するためにタイトルを付ける際も、いかに「マーケティング」にならないようにするかを大事にしているのだそうです。

例えば「美人〇〇」「レズビアン〇〇」というタイトルを取材対象に付けたとすると、〇〇には職業名を入れたとしても、その前の言葉のイメージが強くなり、読者はその言葉を通じてしか取材対象を捉えられなくなってしまいます。それはNEUTの目指す「偏らずに伝えること」ではありません。だから、インパクトがあるかどうかではなく、そのひと本人が使いたい言葉を使って紹介するようにしているとのことです。

言葉には、物事や存在そのものの印象を変えてしまうくらいの力があると思います。例えば、トランスジェンダーという言葉も、その言葉を知って「自分はこれに当てはまる」と感じ、救われる人もいれば、その言葉に縛られて苦しむ人もゼロではないでしょう。平山さんの言葉の使い方についてのお話を聞き、そんなことを考えました。

「バリアフリー」=段差がないこと?手すりがあること?

阿部一雄さんは名古屋で工務店を営む建築士。2002年に事故により車椅子生活になりました。バリアフリーの住宅やバリアフリーを必要とする施設建築も手がけていますが、バリアフリーにスポットを当てるのではなく自然とデザインに組み込むこと、できるだけ障がいのあるひと本人が自分で動けるような造りにすることを心がけているそうです。

阿部さんは、例えば車椅子の人の住む住宅を設計する際、「建築の話は1割、あとの9割はその人の車椅子生活の話をする」のだそうです。バリアフリーと聞くと、段差がない、手すりがあるなどの条件を思い浮かべがちですが、人によってできること・できないこともそれぞれです。

「一人として同じ障がい者も高齢者もいないが、皆自分がどの位置にいるのか分からない」そこで阿部さんは、一人ひとりとしっかり対話をすることで、その人のニーズを見出していくのです。

「僕はそのひと本人をよく見て、その人に合わせて設計をするので、あえて手すりを作らなかったり段差を残すということもある。そこには、“めちゃめちゃ多様性”がある」のだと、阿部さんは語ります。

「違い」と生きるためのデータの役割とは?

阿部さんのように、一人ひとりとじっくり向き合うことで多様性が実現することもあれば、全く別の視点から「多様性」や「違い」と関わる登壇者もいました。本間健太郎さんは東京大学・生産技術研究所で、データ解析から地域の特性を解析する研究などを行っています。

例えば、TwitterやFlickrの投稿分布から、どの国から来た人がどの地域に多いかが分かる。山手線の車椅子ユーザーの乗降数からは渋谷駅の利用者が少ないことが分かり、駅周辺の通りづらさが浮き彫りになるなど。また、トイレの待ち時間を解析した結果、インクルーシブな(いわゆる誰でもトイレと呼ばれる)個室を作ることで、面積効率は下がるが融通効果が上がる、つまり、個室の数は減るけれどトイレを長く待つ人が減る、という解析結果が出たことがあるそうです。

こういったデータ解析が、都市において建築を変える際などの説得のロジックになり、じわじわと都市の変化につながるのだそうです。その「じわじわ」は、言わば漢方で身体を温めるようなもの。即効性が必ずしもあるわけではないので、変化は気づかれにくいかもしれませんが、いつの間にか都市の姿、あり方に影響を与えていくものだと思われます。

多機能トイレはどうして生まれた?

まちの中のトイレについて、永田さんからもこんなお話がありました。トイレは、色々な人のニーズを細かく分けて変化を遂げてきたが、それらのニーズを束ねることで新しいものが生まれてくるのだそうです。

「日本では男性トイレと女性トイレを置かなければならないという決まりがあるが、その二つだけでは困る人がいる。トランスジェンダーの人のみならず、異性の介助者、小さな子ども連れ……。これらの人々は、それぞれの数が小さいことで声なき声になってしまいがちだが、それらの声を束ねることで、これまでと違う新しい『性別を問わず利用できるトイレ』という大きなニーズが立ち現れてくる」

小さな声を束ねることで生まれるもの。その中には、インクルージョンの視点が存在していると言えそうです。

「違い」と生きる、その先の未来は?

「違い」について感じていることを共有する中で、本間さんによって投げかけられた言葉が印象に残りました。

「米粉の野菜餃子ばかりになっても、画一的でつまらないのでは」

米粉の野菜餃子とは、登壇者の間で話題にあがった、清成さんがこれまで出会った中で一番、ハラールやアレルギーの制約を乗り越え、幅広くどんな人でも食べることのできる料理なのだそうです。言わば、インクルージョンした(インクルーシブな)料理。

そういった多くの人向けのもの、誰にでも受け入れられるものの存在は素晴らしいけれど、そればかりの社会になってもつまらないのではないか、という本間さんの一言は、新たな問いとして会場にいる人々の中に残ったのではないでしょうか。

イベント後の懇親会で参加者からも、「登壇者の皆さんは既に『違い』を受け入れポジティブに捉えているが、社会の現状はそこに追いついていないと感じる」という感想を聞きました。

現在の日本は、まだまだ「違い」とどう生きるのかを探している段階なのかもしれません。それなら、まずは「米粉の野菜餃子」をつくることを考えたい、いつかそれをアップデートした先の未来を見てみたい。そんな風に思います。

多様性の中、自分はどこにいる?

私自身は今回のイベントが終わる頃、「多様性の中で一体自分はどこにいるのだろう?」という問いが浮かんでいました。自分という存在について考えるとき、何がアイデンティティとなるのか。

国籍、年齢、性別、仕事、家族、仲間……。自分は一体マジョリティなのか、マイノリティなのか。まずは自分というものを知らないと、他者との「違い」も本当には分からず、「米粉の野菜餃子」もつくれないのではないでしょうか。

次回のクエスチョンカンファレンスのテーマは「家族」です。このテーマを通して、自分とは何かを考えてみませんか。

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