元陸上競技選手であり、現在は大学での研究をメインに、SHIBUYA QWSのメンターなど、多彩なフィールドで活動する為末大さん。これまで数多くのスタートアップやプロジェクトに伴走してきました。
SHIBUYA QWS(渋谷キューズ)は、問いを起点にしながら、新しい価値や可能性を生み出していく存在「Questionpreneur(クエスチョンプレナー)」を提唱しました。
独自の視点で社会と向き合い続ける為末さんに、今回はご自身の「問い」との向き合い方について伺いました。
アスリート引退後の葛藤から見えてきた自分だけのテーマを見つけるプロセスとは。正解のない時代を生き抜くヒントに迫ります。
為末 大
為末 大
1978年広島県生まれ。法政大学経済学部卒業。東京大学 先端科学技術研究センター 附属包摂社会共創機構 教授。
中学時代より陸上競技を始め、男子100mから400mを経て400mハードルに転向。2001年世界陸上エドモントン大会にて47秒89の日本記録を樹立し、日本人として初めて世界大会スプリント種目でのメダル(銅)を獲得。2005年世界陸上ヘルシンキ大会でも銅メダルを重ね、シドニー・アテネ・北京の3大会連続オリンピック出場を果たした。現在も同種目の日本記録保持者。「走る哲学者」として知られる。
2012年の現役引退後は、スポーツ・教育・テクノロジー・社会包摂の交差点で多彩な活動を展開してきた。東京大学では、多様な背景を持つ人々が共に生きる社会の実現をテーマに研究・実践に取り組む。
主な著書に『熟達論』(新潮社)、『諦める力』(プレジデント社)、『Winning Alone』(プレジデント社)、『走る哲学』(扶桑社)など。
安易に飛びつかず、「待つ」 固有の問いを見つけるまで
——今日はご自身の「問い」との向き合い方について伺えたらと思います。まずは、為末さんが最近、最も関心を持たれている領域や向き合っている問いを教えてくださいますか。
為末:今は身体性に非常に興味があって、「身体が関わる知性とは何だろうか」というリサーチクエスチョン(研究上の問い)に向き合っているところです。我々の人生は長く、環境もどんどん変化します。人間が環境にどう再適応し、学習していくのかを考える中で、自分が独自性を出せるのは身体が関与している領域だと明確になってきた、というのが最近の関心ごとですね。
——なるほど。その身体性というご自身の原点とも言えるテーマに辿り着くまでには、どのようなプロセスがあったのでしょうか。
為末:アスリートを引退してからの約10年間は、いろいろな領域を模索していました。例えば経営や教育に関わってみたり。元アスリートという下駄を履かせてもらっていたおかげで、いろいろな方に面白がってもらえて、なんとなく形になっていた部分もありました。でも、「本当に自分がこれで喜べるんだろうか」と考えると、ちょっと違ったんですよね。
——その「ちょっと違うな」という違和感を抱えたまま、当時はどのような心持ちで過ごされていたのでしょうか。
為末:自分自身が何をする人なんだろうと問い続けながら、いわば「何者でもない期間」を過ごしていました。ただ、そこで焦って別のわかりやすい肩書きに逃げなかったのは、「安易に飛びつかない」という意識があったからだと思います。
人間って、どうしても他者の欲望を模倣してしまう生き物なんですよね。世の中には「有名になる」「お金持ちになる」といった、すでに用意されたわかりやすい評価軸、つまりレースがあります。子どもに「将来の夢は何ですか?」と聞くと、98%は職業を答えるんですよ。でもそれって、「どのレースに出ますか?」という質問に答えているだけであって、「その職業を通じて何を解き明かしたいのか」という、自分固有の問いを持っているわけじゃない。子どもの頃からすでに、他者が作った評価軸で走っていく考え方が出来上がってしまっているんです。
——確かに、用意された選択肢の中から選んでいるだけかもしれません。
為末:でも、「問い」というものを厳密に突き詰めていくと、誰かの欲望を模倣しただけのレースに乗るのではなくて、自分が知りたくてしょうがない好奇心に身を委ねることだと思うんです。
すでに答えが出ているものを追うのではなく、自分の好奇心に身を委ねようとすると、どうしてもモヤモヤした期間が長くなります。安易にわかりやすい答えに飛びつかず、立ち止まって問い続ける。それが結果的に、生涯ブレない自分の軸を作る上で必要だったような気がします。アスリート人生で極限まで興奮するような体験をした分、世間的なわかりやすい成功には簡単に飛びつけず、納得いくまで待つことになったのかもしれませんね。

なぜ今「問い」が必要なのか。AIには代替できない主観の力
——今までにないスピードでAIが発達し、聞けばすぐに答えが出てしまう時代になりました。その中で、あえて問いを持つことの役割をどうお考えですか。
為末:人間にとって「わかる」ということには、2段階あると思うんですよね。例えばオランダにハーリングという魚料理があるのですが、めちゃくちゃくさいんです。AIに聞けば「オランダで一番くさい食べ物です」とすぐに出してくれます。これが第1段階の「わかる」です。
でも、実際に食べてみて「本当にこんな匂いなんだ!吐きそう!」と身体で体験するのが第2段階の「わかる」なんですね。オリンピックも失恋も、検索すれば情報は出てきます。でも、その本当の実感は経験してみないとわからないですよね。これからの時代、この「知っていること」と「経験していること」の境目が大きくなる気がしています。そして、後者の体験から立ち上がってくるのが、その人固有の問いなんじゃないかと。
——AIですぐに答えが出るような問いと、体験から生まれる「固有の問い」とでは、一番の違いは何でしょうか。
為末:AIがすぐに答えを出せるものって、いわば「客観的な問い」なんですよね。そうした問いはデータ化できますし、AIも考えてくれます。。一方で、「私にとってあの体験は何だったのか」というような主観的な問い、つまりこれが固有の問いなんですけど、それはデータには示せない圧倒的なリアリティがある。他人に伝えづらい分、本人自身を強く突き動かす原動力になるんだと思います。
——情報ではなく、実感が人を突き動かすわけですね。そうした個人の内面に向かう主観的な問いは、ビジネスの現場でも必要になるのでしょうか?
為末:ええ、必要だと思います。そういった主観的な問いがないと、途中で思考が浅くなってきてしまうんですよね。スタートアップの方々を見ていると、時々「問いが弱いな」と感じることがあります。彼らは「どうすればいいか」ははっきりしてるんですけど、無意識のうちに金銭の最大化など、ある制限の中での最適化になっていたりする。そういう時に「美しさって何だと思いますか」と超主観的な指標を投げかけると、複雑性が高まって、もう一段問いが深まることがあります。
問いを持つことの一番の価値って、世界を確定させないことにあると思うんです。「正義とは何か」という問いがあれば、そんな簡単に正義を振りかざせなくなる。目の前の人を属性のカテゴリーだけで見てしまうことを防げるというか。世界を記号や言葉だけで体験せず、不確定な状態のまま受け止める。そのために問いが必要なのだと思いますね。

先生も黒板もない 問いのある人生を歩むということ
——世界を確定させないために問いを持つ。ハッとさせられる言葉です。答えのない不確実な時代において、若者や子どもたちが「問い」を持つことにはどんな意味があるのでしょうか。
為末:問いを持つって、いわば先生も黒板もない空間に向かって宿題を出されるようなものだと思うんです。学校から社会に出る時の最大のジャンプって、まさにその「黒板と先生がいなくなること」ですよね。「1+1は?」と聞かれて「2」と答えても、「2が正解です」とは誰も言ってくれない。そこで誰かに「これが正しいか教えてください」と言ってしまうのは、答えを探す人生であって問いを持つ人生ではありません。だからこそ、子どものうちから一部分だけでも、正解のない問いに向き合っておいた方がいい気がしています。
——なるほど。いきなり社会で直面すると、戸惑いますからね。
為末:あと、かつては「こうすれば社会でこうなれる」というパターンがある程度決まっていました。でも今は、教える側の大人だって正直、10年後どうなるかわかんないよってなってるじゃないですか。誰も答えがわからない時代なんですよね。
手元と黒板だけ見ているから不安なんですけど、ふと横を見ると同じように悩む友達がいて、ちょっと向こうを見ると教壇に立っていたはずの先生も一緒になって迷っている。「未来のことはわからないね」と言いながら、ああでもないこうでもないと話し合い、試行錯誤していく。それが、問いのある人生のイメージです。振り返った時に、自分の歩んできた道が、自分の問いに対する答えになっている。そんな風に生きられたらいいですよね。

クエスチョンプレナーとは、社会の当たり前をずらす存在
——最後に、QWSが提唱する「クエスチョンプレナー」について伺います。私たちはそれを「問いを起点に新たな価値を生み出す人材」と定義していますが、それを聞いて為末さんは、どのような人物像が思い浮かびますか?
為末:うーん……そうですね、大きく分けて2パターンが頭に浮かびました。一つは、私が大好きなアントニオ・ダマシオという脳神経学者。彼は「身体が知性に影響しているのではないか」という視点から、「知性とは何か」という大きな問いにずっと心をとらわれながら生きている人なんです。アインシュタインなどもそうだと思いますが、一つの大きな問いが自分の心をずっと捉えて離さないパターンの人ですね。
——生涯をかけて一つの大きな問いを深く掘り下げるタイプですね。
為末:もう一つは、周りに問いを振りまく人っていう感じがするんですよね。例えば、ビートたけしさんの「赤信号みんなで渡れば怖くない」っていうギャグって、考えてみるとすごく大きな問いだと思うんです。あれって冗談の形をとっていますけど、法的なルールや集団圧力に対する痛烈な風刺ですよね。ああいう風に、一言で日常が違って見えちゃうような問いを投げかける、心理学の世界でいう「トリックスター」みたいな存在です。
みんなが真面目に議論している会議中に、「でも、そもそもさぁ」とボソッと言うような人も、このタイプかもしれません。本当にいい問いって、突拍子もないものではなく「言われてみれば、確かにずっとそこにあったな」とみんなに気づかせるものだと思うんですよね。
——確かに、自身で問いを深めるだけでなく、周囲に「そもそも」を投げかけてインスピレーションを与えていく存在も、クエスチョンプレナーと言えそうですね。
為末:そう思います。子どものような素朴な疑問をそのまま持って、みんなが走っているレースに対して「そもそもさぁ」と立ち止まってみる。そうやって「本当にこのルールでいいんだっけ?」とボソッと問いかけることで、周囲の当たり前をちょっとずつずらしていくような存在ですね。そんな風に、不確実な世界を面白がりながら新しい価値やきっかけを生み出していく人たちが、これからの社会におけるクエスチョンプレナーなのかなって気がしますね。
